―ジビエートプロジェクト語録―  Vol.1 天野喜孝(前編) 『人と同じものを作るのが好きじゃなかった』
2019.07.05 公開

―ジビエートプロジェクト語録―

『人と同じものを作るのが好きじゃなかった』(前編)

Vol.1 天野喜孝

 

世界で成功を収めた日本のクリエイター達が、改めて日本の“和”を見つめ、世界へ発信する事をコンセプトに集まったのが、ジビエートプロジェクトである。どんな思いで関わっているのか、どうしたら海外で成功するかを取材からひも解くシリーズ企画。第一弾は、天野喜孝先生。過去のルーツをたどりながら、これからのこと、ジビエートへの期待を伺いました。

 

 

―ここ最近の印象的なお仕事をお聞かせください―

(天野)「4月にやった展覧会「ラフ∞絵(ラフむげんえ)」ですね。こち亀作者の秋本治、天野喜孝、ガンダムの大河原邦男、クリィミーマミの高田明美さんと。元タツノコメンバーなんです。僕がガンダム書いたり、亀有描いたりコラボして。これは本当に面白かったよね。人の作品を書くことなんでないですよね」

 

―ちなみに、何ガンダムを書いたのでしょうか?―

 

(天野)「僕はガンダムのこと知らないんだよね。インターネットで2,3探して“こんな感じかな?”って書いてみた(笑)。当時、放映していた作品は見てないんです。ライバルだったりしますから。当時は沢山ライバルがいたんです。個人的にはライバルだとは思ってなかったですけど、会社は大変だったと思います」

 

―とても新鮮な取り組みですね。素朴な疑問ですが “アーティスト”の仕事と“イラストレーター”の仕事について違いがあれば教えてください―

 

(天野)「区別は難しいですが、前者は作品自体が目的で、それ1点を監督したもので成り立つもの。後者はゲームもそうですが、メディアを通して伝わるもので、オリジナルで完結するものと、使われて完結するものの違いだろうと思います。今、令和になりましたが、時代とともに相手によっても受け取られ方が違う。自分がアートと思って書いても、受け手によっては違うかもしれない。どちらも仕事なので好き嫌いは無いですね」

 

―今にまでたどり着くエピソードを伺えたらと思います。天野先生はいつ頃から描き始めたのでしょうか?―

 

(天野)「描き始めたのは3歳のころでしょうか。親父が漆職人でした。親父と一緒にやっていた長男がその後、製紙工場で働き始めたんです。紙がいっぱいあったんでしょうね。それを家へ持ち帰ってくるようになったんです。3歳だった僕はその紙に乗って、毎日絵を描いていました。実家は静岡なのですが、当時製紙工場が沢山あったんです。紙が豊富になったんですよ」

 

―恵まれた環境だったんですね。その絵を誰に見せていましたか?―

 

(天野)「おふくろが喜んでくれていました。褒めてもらえるのがうれしくて何度も描くようになったんだと思います」

 

 

―将来本格的に絵を描いていこう、と思ったのはいつ頃でしょうか?―

 

(天野)「東京の国分寺へ親友で幼馴染が転校しまして、中学三年生の冬休み、その友達のところへ遊びに行ったんです。1週間ぐらいでしょうか。近くに漫画家の家とか仕事場とかあって、当時、絵は描いていたんですが漫画も好きだったので、見学しにいこうとなったんですね。実は、その中に、タツノコプロがあったんです。親友が私の絵を持って行って“彼をここで働かせてくれ”って言ったんです。そうしたら採用通知が来ちゃって(笑)それで急遽、15歳の時、東京に出てきてタツノコプロに入ったんです」

 

―面白いエピソードですね。仕事場が沢山ある中で、タツノコプロへ入った理由は何なんでしょか?―

 

(天野)「当時『宇宙エース(1965年-1966年)』がやっていて、そのセルが好きで、とても綺麗だったんです。それが理由でしょうか(笑)当時、テレビは新しいメディア手法でした。昼間は学生をして夜仕事をしていたんですが、テレビ制作の仕組みに15歳の時から組み込まれていったんですよね。将来、どうこう考える前に、早くしてこの業界に居た感じです」

 

(天野)「18歳のころからは、キャラクターを作る役割が増えてきました。個室を与えれられて描いてましたね。最初に描いたキャラクターは『樫の木モック』、毎週出演するサブキャラクターとか。当時は、作画もやりながらキャラクターやったり、演出の指示で絵コンテを描いたり、とにかく何でもやりました」

 

―キャラクターを作ることは、先生は好きだったんでしょうか?―

 

(天野)「人と同じものを作るのが好きじゃなかったんです。自分もやっていましたが、アニメーターという仕事はキャラクターがあって描くけれども、キャラクターのようにゼロから生み出す方が楽しかった。タツノコプロそのものが、オリジナルを作るアニメーションの会社だったんです。原作があってアニメーションを作る会社ではなかったんです。当時社長でありながら漫画家、アニメの原作もしていた吉田竜夫さんがトップにいて、僕がその下で働いていました。けれど全く教えてくれなかったんです。“自分にできない事が出来たほうが良い”と考える人で、竜夫さんが作ったものじゃないものを会社は欲しがっていた。竜夫さんと創作ではある種同じ立場だったんです。僕が良いキャラクターを描くと、結構悔しがってね。社長なんですけど、クリエイターとしては平等。非常に恵まれた環境だったと思います」

後半につづく―